リボンのついた洋服
娘の不可解な行動のひとつとして、風呂上がりにパジャマを着替えたあと、寝る前に私服に着替えて眠る。と言うものがある。
そのままパジャマのままで寝ればいいだろうになぜ私服に着替えるのか。
何日か見ていると同じような服を着ているように感じる。
小さいリボンが胸のあたりについている、淡いピンクのロンTだ。
もしかしたら、その洋服が特別好きなのかもしれない。
もしかしたら、その服を保育園で褒められて嬉しい気持ちになって、私たちにも見て欲しいのかもしれない。
もしかしたら、洋服をまだキチンと1人で着替えができないことに焦りを感じて練習しているのかもしれない。
なぜ、娘がパジャマを着た後に着替えをするのかを、明確に言葉で伝えるほどの語彙力は備わっていない。
でもこちら側で色々想定しても、着替えをすることで、何か悪い方向に進むこともなさそうなので妻も叱るわけでもなく、そのままにしている。
夜遅くに仕事から帰ってきて、娘の寝ている部屋を見てみると、パジャマを着ないで普段着を着て寝ているのをみると不可解であると共に微笑ましくも感じている。
こう言うのが発達障害の子の特性なのかは正直全然わからない。
娘が発達障害の疑いがあると言われてから、娘の行動を、妻から話を聞いて文章にしている。
文章にすることによって娘の行動や、気持ちをまとめて、親としてどう接するべきか見えて来たり、娘が発達障害でどのような位置付けになるのかも見えてくればいいと思っている。
どのような位置付けかは、今は知識が足りず判断できないが、後々知識がついて来てからの判断材料として文章が残っていれば役に立つだろう。
とりあえず動きながら今出来ることを精一杯やっていければいいと思う。
ただ私の知識が足りないのか、今のところ、奔放で、かわいい娘のただの子育て日記になっている感じは否めない。
タブレットなしで食事ができた
妻と夜今日のことを話し合っていた際、嬉しい話を聞いた。
タブレットで動画を見ながら食事をすることをやめられたらしい。
動画を見ながらだと、ながら食べになって、ただでさえ食が細く食べるのが遅い娘の食事が、さらに遅くなり結局食べ終わったのかどうかわからないまま、ダラダラする流れが普段の流れだった。
もちろんタブレットで動画を見せるくらいなら外で遊ばせたり、対話の時間を増やしたりする方がいいのはわかっている。
ただ、今の時代に子育てをしている者にとって、タブレットの恩恵を活用せざるを得ない気持ちに共感できる人は多いのではないだろうか。
目を離すとなにをしでかすかわからない、火中の栗のような我が子を一定期間釘付けにできる間にできることは数多い。
家事もそうだし、外にいて車や電車に乗っているとき、レストランに入った時など使い方は多岐にわたる。
もちろん、いろんな情報や言語を目に入れることができるメリットもある。
たまに娘も嫌なことがあると「ノー!」と言ったり、ママのことを「マミー」と言ったり、日本語もままならないクセに外国語を使うことがある。
でもデメリットとしていろんなことがながらになったりすることは否めない。適切な視聴距離も教えてもイマイチ理解できてないみたいで視力もきになる。
さらに充電が切れた、Wi-Fiが途絶えた、パケットの使用量が限界を迎えた等、娘の理解を超えたところで中断を余儀なくされると、大泣きされるのも困ったところだ。
そんな心配をして、食事の時でもタブレットなしでと思い、タブレットを取り上げると烈火の如く泣き出して、食事どころでは無くなるのがいつもの流れだった。
ただ最近は、少し鼻水が出るくらいの体調不良と、2人目が産まれて妻が育休中であることから、保育園からの風当たりが強いらしく、やんわりとくるなと言われているので、娘は1週間くらい家にいる。
好きな時に動画をみれる環境にいてタブレットに対する執着が少し和らいだのかも知れない。
とは言え一日中タブレットを見ているわけでもないようだ。
娘はタブレット以外でも家のおもちゃで遊んだり、お絵かきをしたり、外遊びも好きだ。
その為、部屋を壮大に散らかされ、気分で外に連れ出される妻としては疲弊する部分ではあるが、タブレットが好きなことのひとつ、くらいに思えてきてるのだろうか。
食事のスピードもあがり、食べる量も増えているみたいだ。
でない
上の子が3歳になりこの前七五三が終わった。
貸衣装屋で七五三様の着物を着て、お化粧をして、髪飾りを付けてルンルンの娘。
神社に行って一通りの儀式を済ませる。
とすんなり行ってくれると大変ありがたいが、祝詞(のりと)を奏上してもらっている間にはもうグズグズ。
いつもならこの時間はお昼寝の時間なので機嫌が最高潮に悪くなる。
そのタイミングでじっとしてありがたい祝詞を聞いているわけもない。
まだ言葉が完全に出てきているわけではないが、自分でやって欲しいことを言って親がやっても、本人が本当にやって欲しいこととの差異があるようで、そんな乖離感にさらに腹を立てる負のスパイラルが寝るまで続く。
そして大泣きしながら無理矢理写真を撮って、控え室に移動する。
さっき撮った写真の現像待ちだそうだ。
大泣きしてぐちゃぐちゃになった娘の写真をまっている間も、娘の機嫌はリアルタイムで悪くなって行く。
そんな時間に焦燥感を持ちながら待っていると娘が「トイレに行きたい」と言う。
娘は只今絶賛トイレトレーニング中。
機嫌が良くて興味がトイレに向いたら、家にあるおまるや補助器具付きのトイレで用が足せるくらいの成功率だ。
無論オムツは装着中だ。
そんな状況下、着物を着て、オムツを履いた娘を補助器具もないトイレで用を足させないといけないと思うと、途方もない徒労感に駆られた。
私と言う名の大人は「オムツしてるからここでチーしても大丈夫だよ」とか「おうちのおまるでしてみようか」などと諭してみるものの、娘は「今すぐにトイレにいく」の一点張り。
これはどうしたものか。
このめんどくさい状況を打破するにはどうすればいいのか。
そこでハッとした。
自分はなんてつまらない大人になってしまったのだろうと。
自分が子供の頃、やりたいのにやらせてもらえないことがあった。
あの時の思いから子供ができたらなるべくそんな思いをさせたくないと薄ぼんやりと思っていた。
今こそ着物を着た娘を連れてトイレに行くべきではないか。
・・・とまでは全然思っていないけど、トイレに連れて行かないと引っ込みがつかなくなっているなーと諦め、渋々連れて行きました。
ちょっと急な階段をくだり、狭めのトイレに入り着物が汚れないようにうまく避け、トイレに座らせる。
「でたー?」と私が聞くと、
「でない。。」と申し訳なさそうな半笑いで娘が答えた。
その表情から、
(あれだけ大騒ぎして、この大変な状況でトイレに連れて来てくれて大変申し訳ないんだけど)「でない。。」
のようなニュアンスに読み取れたような気がして思わず私は大笑いしてしまった。
親の苦労子知らず。なんて言葉があるように、当然娘も親の苦労など知らずに好きなように生きている。
娘がこっちの苦労を申し訳なく感じたのか、ただ単にトイレを失敗したときの感情なのかはわからないが、ときおりこういう面白い表情をする娘に笑わされている。
ジューちゅ飲みたいなー
娘はジュースが大好きである。
特にリンゴのジュースが大好きだ。
こっちが止めないと本当に際限なく飲んでいる。
一時期ジュースの量を厳しめに制限していたが、ダメだと言うと、言葉にするのが後ろめたいくなるけど、飲みたい衝動は抑えきれなくて、指を刺すだけとか、かんしゃくを起こしたりとかする頻度が多くなるような気がしたので私はたまに、「ママには内緒だよ」と言ってこっそりあげるようにしている。
当然妻がジュースを制限することには意味があって、ジュースを飲むと元々少食な娘はごはんを食べなくなってしまう。
ただ、あんまり制限をかけて「ダメなものはダメ」という認識になってしまうのはいかがなものかとも思っている。
大人になると各方面から制限をかけられた状態からうまく切り抜ける方法を考えないといけない時がきて、それがアイデアの力だったりデザインに力だったりする。
ダメ、という状況から思考を巡らし、こういういいかただったらダメじゃなくなるんじゃないか、こういうタイミングでアプローチしたらいいんじゃないか、などの最初ダメであっても「抜け道」を探そうとする力は必要だと思っている。
私は育児のセオリーなんて全くわからないが、なんとなく両親ともに言うことを揃えることがセオリーのような気がする。
ましてや発達障害の疑いのある娘にとって両親の言うことが違うと余計な混乱を招いてしまうような気がする。
それでも法を犯す、生命を脅かすことではない、ジュースを飲む、飲まない程度のことに絶対はないということも伝えたいと思っている。
そんな思いが伝わったか伝わってないかはわからないがこんな出来事があった。
娘がジュースをねだるときはだいたい口で
「ジューちゅー」というか、
指を指すか、
冷蔵庫まで私の手を引っ張って連れていくかのどれかになる。
そして今回はまた新しいアプローチをしてきた。
第二子の娘を妻が寝かしつけていて、私と娘がリビングで2人きりになったとき、おもむろに私のそばに寄ってきて、
「ジューちゅ飲みたいなー」
と私に言っているとも、独り言ともとれるような言い方だった。
思わず私は笑ってジュースをコップに注いで娘に渡した。
そんな言い方をどこで覚えたのかと思うと、たぶん妻が私にいう「コーヒー飲みたいなー」から学んだんだと思う。
妻が普通に「コーヒー淹れて」と言うと私はめんどくさいので、
「授乳中に飲んじゃいけないよ」
(もちろんカフェインレスを飲んでいるのは知っている)
とか
「夜飲んだら眠れなくなっちゃうよ」
(もちろん以下略)
とかいっててきとうにはぐらかすことがある。
その中でも私がコーヒーを淹れる率が高い言われ方が「コーヒー飲みたいなー」になる。
言うことを聞かない旦那を動かす、妻なりのライフハックなのか、私はこの言い方でよくコーヒーを淹れる。
娘もその行動をみていて、「コーヒーというものは何かわからないが、飲みたいなーと言うとパパがコップに何か入れて持ってきてくれる確率が高い」とでも思ったのかもしれない。
この言い方が正しいか、正しくないかは置いておいて、人の観察をして、学習をして、実践している娘をみて、成長が感じられたことに、とても嬉しく感じた。
続・タブレットとお着替え
今日も娘に朝から起こされた。
リビングに行きたいらしく「ドア、開けてー」などの私が聞いたことのなかった2語文を話していた。
一緒に寝ている大量のぬいぐるみと少量のおもちゃを抱えてリビングに向かう。
そのままソファに座らせると、動画をみるまで一切の言うことを聞かなくなるので、そのまま娘の着替えが置いてある、リビングの続き間の和室へと向かう。
前回思った娘が「動画を見たいモード」になる前に着替えを済まそう作戦でいく。
多少悪ふざけをするが、着替えは自分でやってくれる。
妻が教えてくれた「着る服を2択に絞る作戦」もやった。
ズボンに関しては冬物の黒いズボンと緑のズボンの選択肢全てを拒否して、夏物の薄い生地の黒いズボンをチョイスしてきた。
できれば冬物を着て欲しかったので、
「同じ黒ならこっちの方があったかいよ」といったらなんなく言うことを聞いた。
「さむい」「あったかい」などの言葉は理解できるのか。
前回の失敗を生かした作戦がうまくいった。
その調子で朝飯も食べさせようとおもいソファに座らせた。
ソファに座らせると「動画が見たいモード」に入った。
タブレットを指す言葉が娘にとっては「テレビー」とか「アンパンマンー」だったりするわけだが、今日は「あー」とか「んー」とか言って要領を得ない。
無論その「あー」とか「んー」とかには「とっととタブレットで動画が見れるようにセットしろ」の意味であるわけだが、言葉に出して欲しい心情がある。
朝ごはんで食べたいものはだいたい3種類。
卵かけご飯は「たまどー」といい、
納豆ご飯は「なっとー」、
かにぱんは「はにぱん」という。
全体的に滑舌が甘いのは成長が遅いのか、そんなもんなのかはわからないが、急に滑舌が良くなるわけでもないので「かわいい」で片付けている。
他にも色々と食べさせようと妻が涙ぐましい努力をしているが、効果は薄い。
だから、朝の時間のないときは好きなラインナップを聞いて食べさせている。
好きな納豆をパクパク食べる娘の姿はやっぱりかわいい。
タブレットとお着替え
娘に起こされて、久々に早起きをした。
最近仕事が忙しくて、起きる時間はいつもギリギリだった。
娘を抱きかかえて、ソファに置き、iPadの電源をいれYouTubeの動画をみせる。
娘が早く目を覚ました朝は、タブレットでの動画見たさに、リビングに連れていけとせがまれることが多い。
動画を見せている間に私は自分の会社にいく準備を終わらせた。
まだ会社に行く時間でもないので、娘のお着替えもやってしまおうと思った。
「お着替えしよう」と声をかけても動画に夢中でまともに取り合ってくれない娘。
しょうがないからiPadを洋服の入ってあるタンスの前に持っていくと、釣られるように娘も来た。
タンスの前に来てお着替えを始めようとしても動画を見ながらふにゃふにゃ悪ふざけをしている。
ラチがあかないので「お着替え終わったらテレビ(動画のこと)みよう」iPadの電源を落とした。
娘は「○○したら□□しよう」という今後の段取り的な話の理解がまだできない。
とてもではないが2、3分だけ動画を中断するリアクションには見えず、一度タブレットの電源を落としたら最後、金輪際、動画を見ることができないとでも思うのか、今回も大泣きをしてしまった。
大泣きをしながらも自分で服を選び、自分で着替えを済ませた。
着替えができたことを軽く褒めて、動画を再開すると、なにごともなかったかのように見ていた。
しかし頭に来ていたのか私にお尻を向けてふて寝をするように動画を見ていた。
その姿がとてもかわいかったので私はいいのだが、流れの作り方がよくなかったと思った。
今度は動画を見せる前に着替えをする流れをつくるのもいいかと思った。
そのことを妻に話すと、育児本に書いてたことで、何パターンか服を娘の前にもっていき「どっちがいい?」と聞くのがいいって買いていたよ。と教えてくれた。
なるほど、と思った。
扱い方を「会社の忙しい上司」のようにすればいいんじゃないかと思った。
自分で案件を進める際、わからないことに直面することがある。
ネットや問い合わせで確認したうえで、
「この場合、こういうパターンとああいうパターンがあってこっちのパターンの方が現実的だと思うのですがどうでしょう?」とか聞いて「いいんじゃない?」とだけ言ってもらえたらいいようにすることを習慣付けている。
自分の案件だから自分がうまくいくようにコントロールする必要があるから答えの内容も自分で誘導するようにするけど、娘には自分で主体的に動いて欲しいから、同じような条件のものを並べて、自分で選んでくれるのがいいかもしれない。
今度それでやってみよう。
【読んでみた】子供の発達障害
早速こんな本を読み始めている。
正直まだ発達障害がどんなものか、というのを簡潔に言えるほど噛み砕いて言えるほどの理解までには至っていない。
ただこの本を読み始めて発達障害の子を育てていくにあたって、様々なシーン別に書かれているのでひとまずどんな対応をしたらいいのか、などを学んで行けたらいいと思っている。
ここで気をつけないといけないのが、発達障害の子供の接し方を学んだからといって、それが私の娘にマッチするとは限らないこと、妻を含めた私の家庭にマッチするとは限らないことを頭に入れておくこと。
不安や心配が先行して、本で読みかじった方法をすぐに実践して、娘や妻の負担になってしまうことは避けておきたい。
そもそも新しい分野を学んでいくにあたって、1冊の本を読んで行動するのはちょっと危険だと思う。
いくらその分野の識者だとしても、自分の経験や知識をベースに論じているわけだから、私に合わないこともあるだろう。
本も色々な作者のものを10冊くらい読んで、その中から共通項を見出したり、私の家庭にとってクリティカルなものを見つけたりしていくのが王道だろうと思う。
そんなわけで1冊目。
本の内容は、幼児期から中学生くらいまでのシーン別の対応法が書いてあった。
3歳の娘に発達障害の可能性があると知って1週間経っていない私にとっては少々網羅的すぎるきらいがあったが、読んでいて損はないと思った。
障害というよりかは個性と捉えて、その子にあった対応をするというのが基本理念のように感じた。
その子に「どうなって欲しいか」よりもその子が「どうしたいか」が優先。
大方「無理をしてやらせない」というのも共通していえそうなところだった。
そんな中でちょっと気を付けようと思ったのが「誉め方の熱量」だった。
なんにしても娘が達成した時には目一杯褒めてあげるのが正しいと思っていた。
犬を飼っていたとき、わかりやすいしつけをするために、支持したことができたら目一杯褒めていたので、自然と娘にもそういう対応をしていた。笑
ただ、娘は犬より賢いので、あまり過度に褒めるとわざとらしさを感じたり、親のこういうことをもっとやってほしい(娘にとってはやりたくない)と押し付けのように感じることもあるらしい。
そこで娘の気持ちに寄り添い、娘が達成感を感じている時に、さりげなく褒める方が自己肯定感が育ちやすいとのことだった。
犬のしつけのクセもあるけど、娘がいろいろなことができるようになると目一杯褒めたくなるんですけどね。
娘の立場になって考えることが大切なようです。