悲しみとの向き合いかた
膵炎で入院したはずが、いろいろ検査をしたら肺に謎の腫瘍があるとか、先天性の将来的に腎不全になる病気があるとか、悪いところがぽろぽろでてくるケンプー。
さらに肺に関して言えば、腫瘍が原発巣ではなく転移巣であれば(肺から生まれた腫瘍ではなく、どこかしらの臓器から転移してきて肺で成長した腫瘍であれば)もって余命一ヶ月だと怖いことを言われる始末。
不安が波のように押し寄せてきて、どうすれば助かるのかいろいろ考えを模索するものの、ふっと思考が止まったときに「あ、死ぬかも。」と思った瞬間に涙が堰を切ったように流れていました。
確定事項以外は確定じゃない
とはいえ本人はまあまあ元気にしてるんですよ。腫瘍が大きいから若干息苦しくはしているけど、屈託のない笑顔で笑っているようにみえるし気が向けばなんらかの食べ物も食べるし。
だからあんま悲観ばかりしていてもしょうがないところもあるんですよね。
悪いかもしれないは、悪くないかもしれないし。
動物の治療って病名があいまいな状態で進むことがすごく多くて、明確にするためには20~30万円くらい支払って高度医療センターみたいなところで検査して、悪いところが見つかれば、さらにプラスで手術代を支払って手術をして根治、、みたいな流れになるらしいのですが、金額も金額だし、検査したところでがんだったりした場合は手術したところで助からないし、さらにケンプーの場合は将来腎不全になる病気の為、腎臓に負担のかかる麻酔を打つことはかなりのリスクになるらしいので、高い金を支払って知らないところで死なれるのは嫌なので、対処療法的にここが痛そうだったらこの薬を処方してといった流れにしようという決断をしました。
べつにがんかもしれないけど、 がんじゃないかもしれないし。
腎不全になるかもしれないけど、ならないかもしれないし。
膵炎だから痛いかもしれないけど、いたくないかもしれないし。
明日死ぬかもしれないけど、数年先まで生きるかもしれないし。
不確定な「かもしれない」ならいいほうに考えた「かもしれない」を信じたほうが私たちの心身も、ケンプーの心身もよい方向に進むように思います。
悲観して落ち込んでいる時間があるなら、ケンプーにとってなにができるのか、一生懸命考えて、模索して、行動を起こすほうに時間を割いたほうがいいように思います。
てな感じで、ケンプーの入院中人間はいろいろとばたばたとしていました。笑
本人は入院のゲージがいやだといって水入れをひっくり返したりとフラストレーションを発散していたみたいです。
退院後は、点滴と強制給餌がまってます。